退職代行を使った理由

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今日は、なぜ私が退職代行という

職場に迷惑をかける辞め方をしてしまったのか

お話できたらと思います。



退職代行を初めて使ったのは、

32歳の時に看護学校を卒業後に就職した

病院に勤めていた頃で

丸6年が経つという時期でした。





自分の気質として、

人の評価が気になりすぎる傾向があります。

完璧主義というか、人からの評価が怖くて、

絶対にミスをしてはいけないという

強迫観念に駆られているような感覚に近いかもしれません。

その気質はおそらく、

私の育ってきた環境も影響していると思います。


なので、覚えることが多い新人の頃なんかは

一度教わったことは次からミスなく完璧にこなせるよう、

言われたことはいち細かくメモを取り、

終業後、自宅で振り返りを行い、メモに走り書きしたことを

きれいにノートに写し替えるなどしていました。

書くことで頭に入るということもあり、書く作業を頑張っていました。



また、気付かなければいけないといった

これも強迫観念のような感じですが、

「これ、私がやっておきます」

「もうやっておきました!など

入社時期は仕事もきっちりと頭に入れたり、

周りへの配慮も行うことで

いい評価を貰えやすいのですが



言い換えれば、仕事を抱えやすい気質で

周りもそんな自分に仕事を頼みやすいことで、

入職年数が上がるにつれ、

業務量はもちろん、新人教育や委員会、看護研究など

どんどんとこなさなければいけない仕事が増えていき

断れない性格もあり、

だんだんと気づかないうちにしんどくなってきます。


また、人の目を気にするくせに

変に正義感が強いところがあり、

間違ったことを許せない気質があり、

上司が気に入らない部下(後輩)に対し、

嫌がらせ(シフトを何連勤にもしたり)や

スタッフ達の前で過度な叱責を繰り返したりして

後輩がしんどくなってしまった時などは

その上の上司に相談したり

パワハラが過ぎると感じた時は

看護部長に相談にいったこともありました。



ただ、それをすることで、

自分もターゲットになってしまいました。



上記の上司については、

看護部長がその上司を違う部署にすぐに異動させてくださり、

パワハラで有名な上司だったので、

そのことでその上司は今まで

あらゆる病棟を回ってきていたこともあり、

看護部長にそりが合わない上司がいる病棟に飛ばされたことで

その後ほんとうにまもなくのうちに退職していきました。


その後は温厚な師長が来てくれたのですが、

私にとってはよかったけれど、

一部スタッフからは評判がよくなかったりして、

自分が看護部長に相談したことがきっかけで

このような異動が起こったこともあり、

つらい気持ちになったことも覚えています。




その後、病院の建築年数が古かったこともあり

建て直すことになり、

新しい病院、病棟で新たな師長が就くことになったのですが、

その師長もパワハラで有名な人物だったこともあり、

新病院に移る前に、前回パワハラでいろんなことがあったことから、

不安であることを主任に相談したことを覚えています。

ただその時は、

「実際にまだそういう人なのか見ていないから現時点ではどうすることもできない」

と言われました。



約一年、新病院ではその上司のもと、

新しいスタッフも交えて頑張ってきましたが

ほんとうにこの上司に関しては、とてつもない人で

私自身が新しい環境や増えたスタッフのことなどで

悩んでいたことも多かったし、

看護職は入れ替わりが激しく、

気づけば新人の頃にお世話になった先輩も

いなくなっていて、

ベテランがいないことで

6年目の私がリーダーや重症患者を任されることも多くなり、

負担も多かった。



このままでは、自分が潰れてしまうのではないかという

不安を日々抱いていたことも事実でした。

なにかのきっかけで、そんな心のコップが

水が溢れそうなコップを

胸に抱えながら仕事に励んでいたある日

心のコップが溢れだす、

最後の出勤となったきっかけになる出来事が訪れました。



私が部屋持ちを担当していた患者の一人の

腕に巻いていた貴重品入れの鍵が見当たらないと

介護士から報告があり、

おそらく昨日、清拭をしたので、その時に

病衣を脱衣介助した際に一緒に鍵も腕から抜けてしまったかも

しれませんと。

後でリネン室を探しにいきますと言ってくださり、

わかりましたと答え、師長に報告した時でした。


「探しに行ってくれるって、あなたがちゃんと確認してなかったからいけないんじゃないの?!」

「もっと早くないことに気づいてればよかったんじゃないの?!

「探しに行ってくれるって、人任せでいいの?!

とすごい剣幕で、ナースステーションでみんながいる前で怒鳴られました。


重症患者を受け持っていることで病棟を離れることができないと思っていたこと、

そして、

たしかに私が朝、バイタルサインに回った時に、腕に鍵が巻かれていないことに

気づければよかったのかもしれません。

でも、その時点でも見つかったのかもわからないし

病棟は寝たきりで発語も難しい患者さんがほとんどで

腕に鍵を巻いている患者さんも少ないので

そこまで確認できていなかったこと、

また、部屋持ちの数も多いので

はやく部屋回りを終わらせなければいけないことなど

たくさん言い訳はありました。

ただ、紛失したのは私ではなく

介護士が清拭前に腕に貴重品が巻かれていることに

気づかなかったことも原因の一つとしてあるかもしれないですが

ただ、濡れ衣のように怒鳴られたこと

それもみんなの前で怒鳴られたことが悔しくて、

思わず

「わかりました、じゃあ今から探しにいきます」と

普段職場では感情を出さず、

にこにこと穏やかに振る舞っていた私が

その時は感情を抑えることができず

逆切れのような態度で師長に言い返してしまったことで

師長は師長で「いいです!」とお互い売り言葉に買い言葉のような感じになっていました。


その後、介護士さんと師長と3人でリネン室に降りるためエレベーターに乗り、

その時は師長もさすがに言い過ぎたと思ったのか

私に対する態度も治まっていました。


結局鍵は見つからず、

その後は終礼時に師長から全体に

「貴重品の取り扱いには注意してください」といった

声掛けだけあり、私のところには話に来ることはなかったです。


その後、夜勤で来た主任さんに

泣きながらこんなことがあったと話したのを覚えています。



周りのスタッフや後輩などが、心配して声を掛けてくれたことも思い出します。

「今から飲みに行きませんか?」と声をかけてくれた後輩もいました。

だけど、このことが私の中で、もう無理だという思いが定まり、

次の日は日曜日でシフト上休みだったので、

ちょうど大阪マラソンが行われる日だったので

一人で見にいきました。


みんなが走る姿を見ながら、

「私も頑張ったよね」と

自分の心に話しかけたことを

覚えています。


もう職場に行けない状態になったこと、

それで退職代行を使いました。

看護部長もその時は、そのパワハラ上司と仲が良いといわれている人に

変わったこともあり、相談することも諦めていて

パワハラ上司を異動させることができても

また同じような気質の上司が来たことで

一人解決したとしても

その時々戦ったって

同じような気質の人はいなくならないんだということなど

いろいろと諦めモードになりました。




当時は

急にやめたことで患者さん、スタッフに迷惑をかけて

自分はどうしようもない人間だとか

しばらく食欲もなくなって

布団にくるまることしかできなかったり、

精神的にも落ち込みました。


今となっては、

こんな言い方はだめかもしれませんが

私がいなくなっても病院はまわるんですよね。

この記事を書きながら

師長に言われた言葉を文字にする時、

思い出して少ししんどくなってしまいました。


でも、このことがなければ

きっといまの自分もなかった。


もしかしたら

あのままあの病院に勤め続けていたら

もっと自分を追い込んでいたのかもしれないと思うと

社会人として自分はだめだと思う反面

こんなにしんどい思いを二度と自分にさせてはいけないと

考えるきっかけにもなりました。


その後は働きに出ることがしばらく怖くなり、

約一年間失業保険を貰いながら、掃除の仕事をしていました。


その後は陶芸を学びたい思いが芽生え、
翌年、職業訓練校に入校することとなりました。

また職業訓練校のことも記事にしたいと思います。


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